125期、126期のルーキーを取り上げる「Challenge! 新人競輪選手紹介」。今回は126期では唯一の昭和生まれで最年長の中原恭恵(38=広島)。紆余曲折を経て輪界にたどり着いたアラフォールーキーの生き様に迫った。

 取材準備のために経歴を箇条書きしたら、それだけでノートが1ページ埋まった。「高校卒業後すぐに入ってきた選手に比べて、18年ぐらい余計にかかっているからですよ」。そう言って苦笑いした中原が自転車に目覚めるキッカケは高校3年生だった2004年夏、テレビ観戦したアテネ五輪のトライアスロンだった。

「中学、高校と陸上部だったんですが、上には行けないなと思っていたところで、やったら私でもオリンピックに行けるかも」

 千葉大への進学を機にトライアスリートとなり、2008年から地元広島の「はつかいち縦断みやじま国際パワートライアスロン大会」で3連覇するなど結果も出た。

 一方で大学卒業後は社会人として土木関係の仕事に携わり、大学院に進んでからは中国留学も経験。競技は続け、一時はナショナルチーム入りも果たしたがスイムで伸び悩み、悶々としていた13年に2020年の五輪開催地が「トーキョー」に決まった。仲間から「自転車だけなら五輪を目指せる」と背中を押され、シフトチェンジした。

 ただ、一筋縄にはいかない。2015年ジャパンカップ(宇都宮)では古賀志の下りで落車に巻き込まれて鎖骨骨折と左ヒジ開放骨折。オランダの女子チームに在籍していた2018年にはステージ優勝のかかったゴール前スプリントでの落車で右大腿骨骨折し、治療とリハビリに8か月を要した。さらに帰国後は地元での街道練習中にわき見運転の車に突っ込まれ、ロードでの東京五輪挑戦の道を絶たれた。

 それでも東京五輪への夢を諦められず、パラトライアスロンのガイドでの出場を模索した。しかし、予期せぬコロナ禍による大会延期で話は白紙に。失意の中原は下を向かずに新たな目標を立てた。「そうだ、競輪選手になろう」。準備期間が短く1度目は1次試験で不合格だったが、前だけを向き〝3度目の正直〟で養成所入りした。

 新たな仲間たちは全員が平成生まれ。「年齢が離れすぎていて浮いていたと思います。集団生活では食事やお風呂で一緒にキャッキャしながら仲良くなっていきますが、そんな感じでもなかったので。特に気にすることもありませんでした」。それが卒業まで残り1か月半ぐらいとなった時期から一変したという。

「なぜか私の行動や話を面白がってくれるようになったんです。別に笑わせようとしているわけでもないのに(笑い)。卒業の際の帽子投げのときも『ぜひ円陣の中心に』と指名されました」

 中原には養成所時代から、こだわり続けていることがある。「先行してHもBも取って3着までに入る」。卒業記念レースの3走目、在所通算69走目で初めて一般戦となったが「絶対に先行する。それで7着でもいい」と臨んで2着に入った。「お世話になった先生たちが喜んでくれて、すごくうれしかった。ああいう走りをしていきたい」と心に決めた。

 ルーキーシリーズでも本デビュー後も、必ず仕掛けるスタイルは変わらない。大きな着を叩くこともある。「脚力が追いついてくるのが1年後になるか3年後になるかは分からない」が、今しかできないことを優先している。

 最近になって長く体のメンテナンスをお願いしているトレーナーから、こんなことを言われたという。「この3か月半ぐらいで、すっかり競輪選手の脚になってる。以前は7対3ぐらいでロード選手の脚だったのに」。諦めの悪さは武器でもある。アラフォールーキーの挑戦は、まだ始まったばかりだ。

Q&A
 ――賞金の使い道

 中原 両親に「お金もらったよ」ってお小遣いをあげました。

 ――自分へのご褒美

 中原 物欲がないので体のメンテナンスとか自己投資に使うぐらいですね。しっかり貯めて、お世話になった方々に寄付できるようになりたいです。

 ――最後にひと言

 中原 自分からも情報発信していきたいので、ホームページを開設しようと思っています。

☆なかはら・やすえ 1986年8月5日生まれ、広島県出身。159センチ、58キロ。